「名選手、名監督にあらず」、「名選手、名監督に近し」
2002年4月30日
2002年4月30日
ちょうど、この中間ぐらいがいいのではないでしょうか。
名選手は将来指導に必要な要素を高いレベルですでに持っているという点で、いくつかのテーマにおいてアドバンテージを持っています。例えば、デモンスト レーションをするときに、高い技術は有効かつ必要なものです。どれが正しい技術で、どれがいいプレーなのか。そこに基準をはっきりさせるだけの質があれ ば、選手は頭の中に映像としてイメージできるからです。ひとつのプレーを言葉で表現しようとすると、それぞれに感じ方が違ったり、かかる時間が違ったりし ます。他にも、高いレベルでの実践を経験することによって習得している専門知識もあるでしょう。これらが、「名選手、名監督に近し」の理由です。
しかし、「指導者には、選手を伸ばす責任がある。」
すなわち、指導者は選手が実際にどれほど成長したかで評価されるものです。指導者がどんなにいいプレーをデモンストレーションで見せることができても、専 門知識があったとしても、選手がそれをどう吸収し、消化して自分のものにしていったかで、選手のレベルアップにも差が出てくるでしょう。技術や専門知識を どう生かして指導するのかという、指導能力が大切です。どんな名選手であっても、名監督としていい指導をしていくには、選手の目線で課題を見つめ、一人一 人の選手と信頼関係を築き上げながら選手を成長させていくテクニックや、能力が必要となるのです。名監督には、選手に説明するだけでなく、説得して、選手 自身で考え、技術を自分で身につけていけるようにと教える指導能力が必要なのだと思います。
実践では、定義や定説、方程式があって答えを出すわけではありません。指導者は選手に、実践という応用問題をどうやって解くのかということを教え、選手が自分で考えて行動できるようにするのです。
指導者も、その実践という応用問題に対して、ギリギリの精神状態でどういう判断ができるのかが求められています。ワールドカップでは、予選リーグと決勝 トーナメントでその精神状態に大きな差があると思うので、なんとしても予選リーグを突破して、さらにギリギリの世界を経験してみたいと思っています。決勝 トーナメントでは、たった一つの小さなプレーが試合の勝敗を分けてしまうような厳しさがあると思います。そしてこのようなギリギリの状態を選手が経験でき るかどうかが、その後大きな差になります。
日本サッカーにとって、自分自身にとっても、大きな財産になるような経験がワールドカップを通してできるようがんばります。