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2011年12月3日 J1 浦和対柏@埼玉

柏は右サイドバックの酒井が浦和MF原口の仕掛けを1人で止めたのが大きい。1対1でストップでき、センターバックの増嶋らがサイドに引っ張り出されない。酒井の成長が勝利につながった。

J2の昨季から大きな補強はなし。そのままJ1でも得点力が発揮された。カウンターをうまく使うことができ、セットプレーの武器もある。苦しくなると左の橋本、右の酒井からのクロスもあり、パターンを持っている。FWは若い田中、工藤らの成長で、北嶋、沢らも加えて、調子のいいFWを起用できる強みがある。それが後半の途中交代で試合を活性化できる要因だ。シーズン途中にはC大阪や磐田に大敗したが、それを次に引きずらず、連敗がない。ネルシーニョ監督のマネジメントのうまさもある。

来季はACLもあり、過密日程、時差や移動の問題もある。そこをどう乗り越えるか。今季のものを維持しようと思ったら勝てない。さらなる成長が必要だ。柏には今後、V争いがベースにできるだけのポテンシャルがある。

2011年3月8日付コラム「山本昌邦の世界基準」

日本代表のMF香川真司(ドルトムント)がなぜドイツで通用するか。その秘密は「3S」にある。「3S」とは3種類のスピードのことで(1)思考と判断(2)ボール(3)フィジカルだ。

(1)はいろいろなアイデア、意外性を瞬時に駆使して、相手の裏を突くこと。プレッシャーのかかる試合、練習になればなるほどその重要性が高まる。

(2)は1つはパス。サッカーは基本的にはパスゲーム。キックのスピードが速ければ、受けた人が余裕のある状況でプレーできる。もう1つは処理能力の速さだ。パスを受け、ワンタッチで処理できるところをツータッチすれば、自分もパスの受け手も相手からのプレッシャーが増える。

(3)は走る、止まる、方向を変える敏しょう性などのこと。緩急やターンのスピードなども大切。コンタクトプレーで相手よりも一瞬先に体を入れることも大事だ。

香川は身体的に恵まれているわけではない。だが、「3S」をミックスして自分の特徴を生かし、世界最強の組織的な守備を誇るといわれるブンデスリーガで渡り合っている。香川のプレーを見ればいかに3Sが重要か理解できるだろう。経験があるから余裕と自信がみなぎっている。厳しいプレッシャーの中で、それをハイプレッシャーと感じない良い習慣が身についている。

世界を目指す子どもたち、指導者は常に現場に行って、ピッチでスピード感を感じることが重要だ。それは教科書では学べないものだ。「世界との差」を詰めるために、「3S」は重要なキーワードとなるだろう。

週間文春4月29日・5月6日ゴールデンウィーク特大号

阿川佐和子のこの人に会いたい (532回) 試合後衰弱しきった選手を見て、監督はカメラの前で涙を流した。コーチから監督になっても選手からの信頼の厚さは変わらない。まだまだ若い選手の精神面を鍛え、ときには大事にいたわりながら、大人のチームへと育て上げた。日本サッカーの歴史を塗り替えてきた男である。

週刊 SPA! 5月27日号

エッジな人々 インタビュー

ルシエ前監督の退任とともに籍を置くジュビロ磐田に戻るつもりでいた彼に、川渕キャプテンは、「もう少し代表チームの指揮を」と直々に声をかけたという。華やかさはない。一見すると温厚なサラリーマンのようだが、彼ほど代表チーム・マネジメントのノウハウを知る者もいない。ユースからA代表までのコーチを歴任し、絶えず世界との距離を測り続けてきた彼だからこそわかるサッカー界の課題とは?

-トルシエ監督のもとでコーチを務めて、学んだ事はありますか。

数限りなくあります。たとえば、代表とクラブでは、チーム作りの方法がかなり違います。ひとりの選手を365日管理できるクラブは、選手を育て、チームのコンセプトをゆっくりと植えつけることができますが、限られた時間しかない代表チームは、まずコンセプトを明確にしたうえで、個々に短時間で戦術を植えつけなければならない。トルシエ監督は、たった3日間の合宿にも選手を呼びましたよね。強化合宿からクラブに戻ると、代表のコンセプトや与えられた役割を忘れてしまいがちだからです。それを何度も復習させてからクラブに戻す。そうした作業を彼はうまくやってきました。 (続きを読む…)

ファミリス 5・6月号

21世紀★静岡県人物ファイル
山本昌邦 サッカー五輪代表監督

必ずや、日本のサッカーが、世界の頂点に立つときがくる

- 五輪代表チーム監督就任を決断されたのは?

日本サッカー協会からこの話が来たとき、選択肢としてもう一つ、Jリーグのチームの指導にあたるという夢を持っていました。だから正直言ってたいへん迷いました。そのようななかで、今まで自分がやってきたことをふり返ってみると、若い選手たちを育て、アテネ五輪に望むことがいちばん自分の力を生かせると思い、決断しました。もちろんサッカー協会から高い評価をいただき、その熱意にうたれたことも大きな要因です。

- アテネ五輪に向けてのチームの構想は?

2004年のアテネ五輪にはメダルを狙いたいですね。しかし五輪でメダルをとっても、その選手たちが2006年、ドイツで行われるワールドカップのピッチに立たなければ、意味がまったくありません。先輩たちを追い抜けなかったということになりますから。そして私の五輪監督としての役目も果たせなかったということになると思います。この五輪代表チームは、日本サッカー界の躍進を担ったチームでもあるのです。 (続きを読む…)

日本大学付属広報 2003/spring

アテネで36年ぶりのメダル目指す

昨年のサッカーワールドカップ(W杯)。日本チームがベスト16に進み、列島は興奮に包まれた。その”快挙”の陰の立役者である。日本代表コーチとして選手を導き、トルシエ監督を支えた。指導者としての評価は高く、昨年7月、アテネ五輪代表監督に就任。今、1968年メキシコ五輪以来のメダル獲得という国民の熱い期待を背に受けている。

いつか「高い山」の頂上に立つ

「アテネでは前回(シドニー五輪・ベスト8)より上の成績を目標に、若い選手たちにいい経験をさせてやりたい」。また「W杯は夢の舞台だった。スポーツイベントとしては世界一高い山だが、日本が頂点に立つ日も来ると思う。そのときのためにひとつでも階段を上がっておきたい」と語り、2006年のドイツW杯も視野に入れている。
小学校からサッカーを始め、卒業文集に「将来の夢は日本代表選手としてオリンピックに出ること」と書いた。以来、サッカー一直線。高校ではディフェンダーとして活躍し、主将を務めた。チームは好成績を挙げながらも、レベルの高い静岡県では、全国大会出場の機会がなかった。高校3年のとき、既に進学が決まっていた国土舘大学サッカー部監督の推薦でユース代表選考の合宿に参加し、代表に選ばれたが「こんな優秀な選手がどうして今まで埋もれていたのか」と関係者を驚かせた。

若い選手との信頼関係が財産

ヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)で選手生活を送った後、30歳で指導者の道に入り、ユース日本代表のコーチ、監督として若い選手を育ててきた。中田英寿選手はじめW杯代表選手のほとんどが「教え子」で、長い間に培った熱い信頼関係が「私の財産」だと言う。
毎年1月2日、三島高サッカー部の現役、OBらが集まる「初蹴り」には欠かさず参加。後輩たちに「夢を持って頑張れ。あきらめない限りチャンスがある」と励まし続けている。そして「(県代表になって)ぼくを正月の国立競技場に連れて行ってくれといってるんです」と笑ったが、それは世界を舞台に戦う監督のもう一つの夢でもある。

2002年4月 日本大学付属広報

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